【橘ゆかり的略歴】

1965年10月8日、東京都大田区に生まれる。

生まれたての私の足が大きく祖母が「この子は大きくなるわね」と言っていたらしい。そして、幼稚園の時すでに「何年生?」と聞かれる。

その頃、子役をしていた兄の撮影に母が付き添っていたので、よく一人で留守番をしていた。夕食を近所の蕎麦屋に電話して配達してもらったり、朝には一人で幼稚園のお迎え場所に行ったりしていた。たくましい幼少期。

父に頭でっかち鼻ぺちゃと言われながらも、すくすく育ち、育ち過ぎて小学校5年で父の身長を超す。(父の身長155㎝)6年になると160cmまで成長し、バスに乗ると大人料金を要求されたりする。卒業式のスーツはすでに9号。

小学校の卒業アルバムの将来の夢に美容師になりたいと書いたが、クラスに三人「女優になりたい」と書いた人がいて、女優と言う職業を認識し、ガラスの仮面にも影響され女優になりたいと強く思い始める。母に劇団に入りたいと懇願するもあっけなく却下。

それではと、中学時代は演劇部に入り「奇跡の人」のサリバン先生を演じたしていた。その頃、映画を観に行き私もスクリーンの中に入りたいと強く思う。好きな俳優はダスティン・ホフマン。

高校は当時芸能界の人も沢山在校していた学校を受験し、自分自身を追い込んでいく。
高1の時に運のいい事にスカウトされ、事務所に所属。そこから映画のオーデションを受け、「ボーイズ&ガールズ」(森田芳光監督)でシブガキ隊の相手役に決まり、16歳でスクリーンデビュー。とてもラッキー。現場には当時の歌番組の中継など入り、まるで夢のような時間を過ごす。少し勘違いしそうになった私は、役者になりたいのだからと考え直し、高校は卒業したいと演劇部に所属し、レッスン受けながら学生生活を送る。

卒業後、何本かのドラマに出演しながらも11PMのカバーガールのオーデションを受ける。当時のマネージャーとモデルの役を演じるつもりで受けてみようと話していたら決まり、1年間水曜イレブンのカバーガールを経験する。そこで私は色々な世界(超能力、霊能力、UFO、性風俗など)を知る事になる。

その間に映画「猫のように」(中原俊監督)の主役に抜擢され、無我夢中で撮影に挑む。そして、ヨコハマ映画祭で最優秀新人賞を受賞。引き続きテレビ朝日の30周年記念ドラマ「避暑地の猫」(宮本輝原作)主演。とても思い出深いものとなる。マネージャーの勢いと私の若さ(バカさ?)で、数々のドラマや映画に出演する。この頃の事を思うと、自分は何も変わらないのに周りから風が吹いてくる感じだった。

その後、映画「孔雀王Ⅱ」の香港での撮影では、構えのポーズだけすれば後はアクションの人がやってくれるからと聞いて行ったのに、ワイヤーで逆さ吊りされたり、飛んできて着地したりの貴重なワイヤーアクションを経験。
台湾のTVドラマ「多少柔情、多少涙」では、ウエディングドレスのまま海に入ったり、セットで本当にメラメラ燃える炎の中で撮影したり、山での爆発シーンは予想外の爆発で腰が抜けそうになったりの撮影日々。結局、2カ月の撮影予定が色々なトラブル続きで1年間行ったり来たりしていた。
シンガポール、マレーシアでのVシネマ「プリティガール1,2」の撮影では実弾撃ったり、滝の流れ落ちる崖に命綱なしでいたり、トイレもない無人島で蚊に刺されまくりながらの撮影などなどetc…
その頃は海外での作品が立て続けにあり、過酷な撮影現場の数々で、自らサバイバル女優だと思っていた。

それから、停滞期があったり、精神的にもがく時期があったり、それでもと思ったり、そんな中で数々の映画やドラマ、CM、舞台などを続けてきた。

そして最近、
今度は私の中から風がふいて来た。

自分でも驚くような風。

舞台のプロデュースもその風のひとつ。

この風を大切にこれからも精進して行きたい。

 

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